米国のドラマで印象的なシーンがあった。
余命僅かな妻が産もうとしている子供を、自分一人で育てていけるか不安な男に対し、「親がやるべきことはただ一つ、子供のそばにいてあげることだ」
的なことを医師が男に諭していた。
私はちょうどその頃「自分は育児を疎かにしており、自分に時間を使い過ぎかなあ?息子(3歳)をもっと構ってあげなければならないのかなあ?」と気にしていたため、この言葉にジーンとしたと同時に「よっしゃー、そばにいるだけなら(スマホしながらでも)できる!」「これで俺も立派なイクメンだ!」と思った。
そこで試しに1日、息子(3歳)の「そばに居て」みようとした。
息子がソファでテレビを見ていたので、隣に座る。
彼は私に気付き、「高く登れるモノを見つけた」とばかり、私の体に登ってくる。
当然それを振り払っては、あの医師の言葉に反する気がしたので、ジャングルジムとなり、遊んであげることとした。
その後、シンカリオンの玩具で遊び出した息子。
これなら近くにいても大丈夫だろうと思ったが、[ロボット↔新幹線]の変形(かなり複雑)をしたいらしく、「ウ~ン、ウ~ン」唸っている。
当然私に「これ(変形)やってー!」
結局私が「そばに居れた」時間は、30分程度ではなかっただろうか、、、
「そばに居る」というのは、歌詞等でもよく出てきて、気軽な感じに聞こえていたが、決して「そばに居るだけで済む(=自分がしたいことができる)」時間ではないことが分かる。
言い換えれば「要求を聞く時間」に近い。
もちろん要求を断ることもできるが、大抵は叶えるほうが簡単(断ると余計に面倒)なので、受けてしまう。
私から言わせれば、これは結果的に立派な育児になっている。
しかも自分の時間を犠牲にしているし、やっぱり骨の折れる育児である。
これからは「そばに居る」という台詞に安易な想像は抱かないと共に、「やっぱり楽な育児はない」と感じたのでここに記す。